家庭礼拝 2012年4月18日 マルコ8章22−9章1 死と復活の予告
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起
今日の聖書の箇所は、このマルコの福音書の中央にあり、そして、ペトロが「あなたはメシアです」と信仰を言い表し、イエスが死と復活を言い表すと言う、この福音書の中での最高峰に上り詰めた箇所なのです。そしてこれらが意図してされたかのように、続く9章の初めでは、イエスと一部の弟子達はヘルモン山と思われる高い山に登って、エリヤとモーセに会い山上での変容が起こるのです。この場面が、イエスの人生の山頂であるというばかりに、これらの符号はここで一つになるのです。ここから先は、イエスの更なる苦難が始まるのです。いよいよエルサレムへの旅立ちが始まるのです。これからは下っていくのです。ですから、今日の聖書の箇所は、この福音書の大きな転換点であることを知らねばなりません。ここでイエスは、あることを確認し、そして、弟子達に大切なことを述べ伝え、イエス様が遣わされた、メシアとしての道へと突き進んでいくのです。そこで語られる言葉は、一つ一つが、それぞれ独立の説教として語られるべきものなのかもしれません。ですが、私達は、そのことを覚えつつこの箇所全体を読み進んで行きたいと思います。
承
イエス様たちは、4千人との食事の後、船を漕いでベトサイダにやってきました。ここはガリラヤのカファルナウムすなわちイエスたちが宣教し始めた出発点のカファルナウムに近い、隣のピリポの国境の町ベトサイダまでやってきたのです。ガリラヤ湖の北側に接する町ですが、これでガリラヤ湖周辺を一周したという感じになります。ここに着くと、人々は一人の盲人を連れてきて、触れていただきたいと癒しを願いました。ここでイエスさまは不思議な行動をします。今まででしたら、その場で癒しを行っていたのですが、そうではなく、その盲人の手を取って村の外まで連れ出したのです。どうして連れ出したのでしょうか。そして癒し方も違うのです。最初は、その盲人の目に唾をつけて癒そうとします。そして、その両手をその人の上において「何か見えるか」と尋ねるのです。今までのように直ちに癒されたのではないのです。さらに、何か見えるかと、確認さえしているのです。その盲人は、「人が見えます、木のようですが、歩いているのが分かります。」と答えると、もう一度両手をその目に当てられると、よく見えて来て癒されました。このような癒し方はあまり無いのです。実はこれと似たいやしの例が一つだけあります。それは、7章にある耳が聞こえず舌の回らない人を癒した時もそうでした。このときもイエスさまはこの人だけを群衆の中から連れ出して、指を両耳に差し入れ、唾をつけてその舌に触れられて、エッファタといって癒したのです。共通していることは、人々の中から連れ出して、一対一になり、そして直ちにではなく段階を追って処置しているのです。そして癒された後は、この両方の人に、このことは誰にも話してはいけないと口止めするのです。それで、この二つは実は同じ話の違う伝承ではないかと言う説もありますが、状況は、はっきりと違っているので、別々の話とも考えられます。実はもう一つ不思議なことがあるのです。この二つの奇跡の話は、最初に書かれた、このマルコによる福音書にしか書かれていなくて、他の福音書には無いのです。たいていの奇跡物語は、どれかの福音書に書かれているのですが、どうしてでしょうか。イエスが、直ちに癒さなかったことに、力の衰えのようなものを感じて、そんなはずはないと思ったからなのでしょうか。これは、もう誰にも分からないことです。このベトサイダの盲人の場合は、イエス様はこの癒しが行われた後で「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰されました。イエス様が見ていたのは、単に病のみだけではなく、その人が背負っている重荷をも見ていたのです。この人の心の中まで見ていたのです。だからこそ、この村から連れ出して癒し、この村に入ってはいけないと言ったのだと思います。この人が何を思っていたのかは分かりませんが、イエスさまは、この人の心を見通していたのです。目の開いたこの人が村に戻ることは何か危険だったのです。イエスさまはそのように、癒しだけではなく、その人の背負っているものを見通す方なのです。
転
さて、イエス様たちは弟子達とフィリポ・カイサリア地方の村々に出かけました。ガリラヤはヘロデの領地ですが、フィリポ・カイサリアはフィリポの領地になり、先ほどのベトサイダから北にヘルモン山に向かう途中にあります。ヘロデの領土にもカイサリアという町があり、これは地中海に面した町です。それで区別するためにフィリポ・カイサリアと呼ばれていますが、これは新しく造られた計各都市なのです。ここは異邦の町で、異邦の宗教の神殿が建っていました。そこへイエス様達がやってきたということです。
その村々をめぐっているとき、イエスさまは大切な質問を弟子達にされました。27節から30節です。
マコ 8:27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。
マコ 8:28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
マコ 8:29 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
マコ 8:30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
イエスさまはこの質問をするためにこの異邦の町、フィリポ・カイサリアにやってきたような気がします。自分の時がやってきたのかどうかを確かめるためです。イエスさまは弟子達に、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねました。人々の自覚がどこまで来ているのかを確かめたかったのです。あるものは洗礼者ヨハネだといい、エリヤだと言い、預言者の一人だと言いましたが、それはイエス様の確かめたかった言葉では有りませんでした。それで、イエスさまは弟子達に向かって尋ねました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」イエスさまは弟子たちの自覚を確かめようとしたのです。すると、ペトロが答えました。「あなたは、メシアです。」これはペトロの信仰告白です。この信仰告白が、ここで初めてなされたのです。イエスさまはこの言葉を聴いて、イエス様の時がやってきたことを知ったのだと思います。ですがイエスさまは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められました。どうしてでしょうか、ペトロは正解を言ったのではないのでしょうか。どうもそうではないようです。ペトロの理解しているメシアは、世の人々が理解しているメシアと同じく、異邦の民をことごとく滅ぼして、イスラエルの国を打ち立てるメシアでした。ですがイエス様の抱いているメシアは、人々の罪を背負って十字架へと進むメシアだったのです。その意味は正反対ですからとても理解されるはずもありません。むしろ誤解が大きな騒動になってしまいます。イエス様のメシアが理解されるのは、イエス様が十字架の上で死んで復活されてからのことなのです。だから、自分のことを誰にも話さないようにと弟子たちを戒められたのでした。ですが、イエスさまはペトロの言い表した、その信仰の言葉によって、時が至った事を知ったのです。
いよいよ、最大のピークの、イエス様が死と復活を予言するところにやってきました。31から33節です
マコ 8:31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
マコ 8:32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
マコ 8:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
イエス様が、この死と復活の話をしだしたのは、ペトロがイエスをメシアと告白したことと無縁であるとは考えられません。イエスさまは死んで蘇られることを弟子達に教えられたのです。それは誰にも信じられる言葉ではありませんでした。その時、ペトロは少し得意になっていたのか、イエス様より一歩前に出てしまったのです。私達はイエス様の後ろに従うべきなのに、イエス様の前に出て、イエス様をコントロールしようとしたのです。自分ではそれを良いことだと思ってやっているのです。ですがこれは人間中心の常識だったのです。これと同じ間違いをしたのはユダです。やはりイエス様を、自分の思う方向に向かわせようとして失敗しました。私達はイエス様の前に出て、イエス様を導こうとしてはいけないのです。ペトロはイエス様よりも前に出て、イエス様を脇へお連れしていさめ始めたのです。ところが思っていたことと結果は正反対でした。ペトロはイエス様に「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と、ひどくしかられたのです。確かにそれはサタンがペトロの口を通して、語ったのだと思います。イエス様が、これだけ強く反応したのは、イエス様が日ごろから、サタンからの誘惑を受け続けており、ペトロの口からそのことが出たときに、このようにサタンを叱ったのだと思います。これはペトロを叱ったのではなく、ペトロを使って誘惑しようとしたサタンを叱ったのです。そしてそのような誘惑するサタンに対する対応はサタンを滅ぼすことではなく、引き下がれと命じることなのです。そして次から弟子達に語られた言葉は一節一節がとても大切な言葉に満ちています。まず、34節です。
マコ 8:34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
私達クリスチャンは、イエス様の後を従うものであり、自分の十字架を背負って行くものなのです。ですが、気がつかないうちに、イエス様の前を進んで、イエス様を自分の気に入る方向に導こうとしたり、自分の十字架を当の昔に放り投げてきているのに、しおらしい顔をして、イエス様の後に従っている振りをしているのです。クリスチャンがどうあるべきかはこの語られた言葉です。イエス様の後を、自分の十字架を背負っていくことなのです。自分の十字架を背負うと言うことは自分を捨てることなのです。そのように生きなさいと、イエスさまは命じているのです。それは、決して楽で楽しい道ではないことを暗示しているのです。そしてさらにこう言いました。35節です。
マコ 8:35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
マコ 8:36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
マコ 8:37 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
この言葉は日本に伝道しに渡ってきたフランチェスコ・ザビエルが回心するときにイエズス会を発足したイグナチオ・ロヨラに言われた言葉としても有名です。イグナチオはパリ大学にいたとき、ザビエルにこう言いました。「人間にとって最も大切なことは、永遠の命を受け継ぐことである。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」(ルカ9章25節) とイエスも言っておられる。」と言って、イグナチオたちの働きから遠ざかろうとしていたザビエルを回心させたのです。二人は死んだ後にその信仰と働きにより、一緒にカトリックの聖人とされました。この御言葉は、心静かにして、何度でも心に問い直す必要のある言葉だと思います。私達に、大きな信仰的決断を迫る言葉です。何が一番大切なのかと迫ってくる言葉です。次は38節です。
マコ 8:38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
常識的な人間にとって、信仰に生きることは愚かなことなのです。そんなことを信じてどうなるのだ。なんと愚かで哀れなことだと言われかねないのです。ですから信仰を隠して、ひそかに信じている人も出てきます。それが理性ある人の行いだと思っているのです。ところがそこには何も起こらないのです。奇跡が起こるのは何も恥じることなく、盲人バルチマイのように、皆が黙らせようとしたり、愚かだと言って嘲笑したりしても、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続ける信仰に奇跡は起こるのです。信仰には何ものをも恥じないで、公に信仰告白する勇気が大切なのです。そうでないと、イエス様もそのものを恥じると言っているのです。その時私達はいったい誰に頼ることが出来るのでしょうか。どこへ行けばいいのでしょうか。どんな値を払えばよいのでしょうか。
最後にイエスさまはこう言いました。9章の1節です。
マコ 9:1 また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。
この言葉の解釈に苦しむ人がいます。神の国が力にあふれて現れるときというのは、終末の再臨の時であって、いまだにやってきていないのだから、この様に言ったことは間違いだったのではないだろうか、と言う解釈です。神の国が力にあふれて現れる時というのは、そうなのでしょうか。それでは使徒言行録に書かれていることはいったい何なのでしょうか。聖霊業伝と言われるイエスの弟子達の聖霊に満たされた働きはいったい何だったのでしょうか。これこそが、神の国が力にあふれて現れて来ていた時ではなかったのでしょうか。多くの弟子達が、世界の片隅で起こったイエスの教えが決して廃れるものではなく、力強い働きで全世界に広まっていくことに希望を持って見ていたのではないでしょうか。それは多くの弟子達がその希望を持って、イエス様の言った神の国の訪れを、その時生きて観ることが出来たと言うことではないでしょうか。神の国が現れるまで、決して死ななかった者達がたくさんいたのです。
結
今日の聖書の箇所は、イエス様が、メシアとしての使命を強く感じ、その歩みをなされた大切なところではなかったでしょうか。その使命はイエス様がまず最初に、自分の命よりも福音のために生き、永遠の命に生きることを示した箇所ではなかったでしょうか。イエス様はこのときすでに、自分の十字架を背負われていたのです。そして決心していたのです、本当の命を得るために自分の命を失うことを感じていたのです。ですがそれは、死んで終わりではなく、復活される命でした。ですからイエス様の歩みには絶望の影は無いのです。例え死んでも生きるからです。
(一分間黙想)(お祈り)
天の父なる神様、久しぶりに与えられたこの集会の恵みに感謝いたします。イエスさまはついに決心されました。十字架への道を歩みだされました。イエス様に従おうとする者たちにも、その困難を隠そうともせずに、自分の十字架を背負うと言う大切なことを教えられました。今日のみ言葉の一つ一つが毎日でも口で唱えて、御心を知る必要がある言葉です。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」この御言葉に従って、歩んでいけるものは幸いです。それは「わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」と約束されているからです。私達が救われるために、この言葉を噛み締めて行くことが出来ますように導いてください。
世界中におります私達の兄弟姉妹と共に、御名を賛美することが出来ますように。本当の救いへと導かれますように。この祈りを主、イエスキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
<<聖書の箇所(新約聖書:マルコによる福音書)>>
◆ベトサイダで盲人をいやす
マコ 8:22 一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。
マコ 8:23 イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。
マコ 8:24 すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」
マコ 8:25 そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。
マコ 8:26 イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。
◆ペトロ、信仰を言い表す
マコ 8:27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。
マコ 8:28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
マコ 8:29 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
マコ 8:30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
◆イエス、死と復活を予告する
マコ 8:31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。
マコ 8:32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
マコ 8:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」
マコ 8:34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
マコ 8:35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
マコ 8:36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
マコ 8:37 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。
マコ 8:38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
マコ 9:1 また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。