家庭礼拝 2010年3月24日 使徒言行録第一章 約束の聖霊

賛美歌28 御栄えあれや 賛美歌342 神の霊よ今下り 聖書朗読  祈り 奨励説教 全員祈り 賛美歌343 聖霊世降りて 主の祈り

 

今日から、使徒言行録を学んでいきます。これは、ルカによって書かれたと言われ、ルカ福音書の続編として書かれたとも言われています。ルカはユダヤ人ではなく、異邦人です。そして医者であったことが知られています。また、ルカはパウロにとって一番信頼の置ける友人であり、大切な助手でもありました。一緒に投獄されたこともありました。ルカは、新約聖書の中で、ただ一人の異邦人の著者であると言うことが特筆できることです。ルカはこの手紙をテオピロ閣下と呼ばれる人、たぶんローマの高官と思われる人に送りました。これを書いた目的に、ローマの役人達にキリスト教を迫害しないように、キリスト教を弁護する目的としても書かれたとも言われています。

さて、使徒言行録は、聖霊行伝とも言われ、聖霊によって、弟子達がどのように導かれ、イエスキリストを伝えて行ったかが書かれています。この第一章はそれにふさわしく、イエス様による聖霊の約束が語られています。この第一章で語られている大事なこと、そして今日の話のテーマをまとめると、「イエス様は、私たちに聖霊を与えると約束してくださった。そして、その聖霊が与えられると力が与えられ、世界中で、イエスキリストの証人となる。」と言うことです。キーワードだけで言うと、約束と聖霊と証人のこの三つの言葉です。このことについて、今日は考えてみたいと思うのです。そしてこのテーマは、キリスト教のテーマであり、クリスチャンとしてのテーマでもあるからです。

旧約聖書、新約聖書を見ていて特別に思うことは、神様が人間と約束をするということです。旧約、新約と言う言葉も神様との契約、約束と言う意味になります。神様が絶対的存在であるならば、なぜ、人間のような小さな存在と約束をしたり、契約をしたりする必要があるのだろう、と言う疑問をずっと持ち続けていました。絶対者は、被造物に対して、ただ単に命令するだけでよいではないかと思うのです。ですが、この聖書の世界では、神様はこの小さな被造物を神様の御前において、まるで人間を対等なもののように、契約し約束し、自分自身をもその契約のうちにおいてしまうのです。これは、多神教では、このようなことはないことではないかと思います。それはなぜか、と言うことが近年読んだ本の中にそのヒントが書かれていました。それは、私たちの聖書の神様は、私たちに、個人的に、「あなたは、」と呼びかける神様だからです。私たちの神様は、いつでも、どんなときでも、私たちに呼びかけてくださる神様です。私たちが神様から離れても、隠れても、怨んでも、あなたはどこにいるのか。どうしてそのようなことをしたのか、一人前の人として、呼びかけてきます。

アダムとエバが禁断の実を食べたとき、夕暮れになって、神様はアダムとエバを探し回り、「あなたはどこにいるのか」と尋ねたように。そして、カインがアベルを殺したときに、「お前の弟アベルはどこにいるのか」と語りかけてきたように、神様は、私たちに個人的に語りかけてくださる神様なのです。私たちは神様と一対一の人格の関係を持つことが出来るわけです。神様がずっと遠くの人で、私達からは何も出来ない、神様も直接現れてくれない,どうしたらよいかわからないと言う神様ではないのです。このような神様ですから、人間と一対一の人格的関係を持って、人間との契約関係を結ぶことができると言うことになります。

その神様が私たちに与えてくださる約束は、それは私たちの希望となる約束です。人間はこの先どうなるか分からない不安の中に生きている存在です。そして確実なことは死ぬだろう、と言うことが分かっている存在です。その人間に対し、神様は愛と慈しみを持って話しかけ、語りかけ、約束を与えてくださるのです。存在の不安の中に生きている人間に、神の約束の希望に生きることが与えられているわけです。そして、聖書に生きる人々は、その神の言葉の中に、自分たちに与えられた約束を信じて、そしてその約束を守って生きることに大きな希望と使命を見出していたわけです。私たちもまた同じなのです。たとえこの身体が死んでなくなっても、神様の約束は必ず成就する、ということを信じることが出来ることが私たちの信仰の大きな特徴でもあります。

今日の聖書の中で語られる、新しい約束はイエス様から与えられた約束でした。それは、聖霊が与えられると言う約束でした。これはとても大きな約束です。キリスト教が大きく発展したのはこの聖霊が与えられたからです。もしこの聖霊が与えられなかったなら、キリスト教は生まれなかったのです。

これもある本で読んだ哲学者の言葉ですが、いろいろな宗教がいろいろな教え、見解を説いているが、一つにまとめるのは難しい。だが、聖霊と言う言葉は、どの宗教にもあり、非常に似通っている。この言葉によって、宗教を一つとしてみる見方が出来るかもしれない。と言うようなことを言っていました

特にキリスト教は、この聖霊を重んじていたはずです。そうでなければ、ペンテコステで受けた聖霊が、このように世界中に広まっていくような奇跡が起こるはずがありません。この使徒言行録も聖書の中では非常に重要な意味を持っており、この使徒言行録がなければ、原始キリスト教がそして、初期の教会がどのようであったのかの情報は、大きく失われてしまいます。この使徒言行録が、単なる歴史的な記述ではなく、聖霊行伝とも言われるように、聖霊の働きを通して書かれていると見られていることも大きな意味の一つです。初代のキリスト教は、この聖霊によって強められた。この聖霊によって、人間であることの何かを乗り越えて前に進んでいくことが出来たのです。この聖霊の働きは、現代社会では、もう過ぎ去った話なのでしょうか。預言者の時代が終わり、教会の時代に入ったように、聖霊の時代は終わって、科学の時代に入っているのでしょうか。私はそうは思いません。むしろ、聖霊は、人間をも、科学をも乗り越えて前に進んでいく大きな力となっていくものと私は考えています。今の時代は、科学的合理主義によって、聖霊の働きを抑圧してしまいましたが、今また、新しい流れが世界の中に出来つつあります。それがトランスパーソナルな世界です。超個の世界です。人間を超越した世界です。そのような世界にあって、この聖霊の働きがもう一度、その輝きを取り戻すのではないかと私は思っています。

イエス様は聖霊を与えると約束されました。そしてその聖霊が与えられると、力が与えられると言っています。その力は、世界中で、キリストの証人になるという力となる、と言っているわけです。先ず、聖霊が与えられると力が与えられるといっていますが、聖霊と言う言葉から、私たちは、導き手、守り手、弁護者と言うことを連想します。聖霊はいずれにしても、私たちを存在の不安から救い出してくださる方です。私たちは、この聖霊によって、不安によって萎縮していた、私たちの力とエネルギーを解き放って、十分に乗り越える力が与えられるわけです。聖霊が与えられると、不安が消え去り力が与えられます。初代教会の人々も、殺されるのではないかとびくびくして生活していたところから、聖霊が与えられて力を与えられ、大胆に公にその姿を現し、イエスキリストを表していったのです。不安を覚え、びくびくして生活しているのが普通の人間の姿です。それを、聖霊は乗り越えさせてくれるのです。人間を乗り越え、死をも乗り越え、神と一つになり、人間とも一つとなり、恐れのない自由な神様の世界へと連れて行ってくれるのです。このような聖霊の力を初代教会の人々は、イエス様の約束によって受け取ったのです。

今ここで家庭集会をしている、私たちの今の状態は、もしかするとまだ聖霊が与えられていなかった初代教会の人々のようなのかもしれません。私たちが、公に、真の信仰者として、大胆に生きていくためには、この聖霊が与えられることが必要です。私たちは、イエス様に、私たちにも約束の聖霊が与えられますようにと熱心に祈り、そしてその聖霊によって生きる生活を求められているのかもしれません。

初代教会において、その聖霊による力は、キリストの証人になるために用いられました。キリストの証人になると言うのは、これは実は大変なことです。私たちは、肉の目の世界の証人になることはたやすく出来ます。ここに机があることの、証人になる、と言えばなれます。自信を持ってなれます。そして証人としての発言を求められても、確かにその日はそこに机があったと証人になることは出来ます。なんの難しいこともありません。ですが霊の世界は難しくなります。肉の目でキリストを目撃し、耳で聞いた人はその証人になることは出来るでしょう。ですが、それから2000年たった今は、私たちがお会いできるのは、聖霊によって、聖霊であるイエス様と出合うことになるからです。聖書を読んだり、いろいろな本を読んだり、説教を聴いたりして、私はイエス様をこのような人だと思う。私はイエス様をこのように信じている。と言えたとしてもそれはイエスキリストの証人になれるわけではありません。それは単に、その人がそう思う、そう信じるということであって、証人の様に、客観的に明白にイエスキリストはこのような方です、と言えるわけではないからです。私たちもまた、証人になると言うのは、このように思うと言うのではなく、このようでしたと、言える確信がなければならないからです。イエスキリストはこのようでした。このようにしてくれました。と明白に証言できるためには、イエスキリストと出会わなければ言えない言葉です。私たちは、このイエスキリストとの出会いもまた、聖霊によって導かれて出会い、私はイエスキリストと出会った、イエスキリストは私にこのようにしてくれた、わたしは変えられたと証言することが出来るわけです。

そのように証言できるからこそ、人々の心に働きかけ、人々をイエスキリストに導き、世界中に対してもその証言を語って行きたいという熱い情熱を覚えさせるものだと思うのです。

私たちの今住んでいるこの現代社会の人々だけでなく、私たちの信仰においてさえも、私たちは聖霊の働きを本気になって信じていないのではないかと思われることがあります。信仰を語っていても、聖霊なんて、本当にあるかどうか分からない、と思っているような気配を感じることもあります。イエス様は聖霊をとても大切にされました。マタイ12章31節のベルゼブル論争のところでは、ファリサイ派の人々がイエス様の聖霊を冒涜したとき、自分が冒涜されてもそれは許される。だが聖霊を冒涜するものは許されないといった箇所があります。そこには、次のように書かれています。

31:だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。

32:人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」

イエス様も神様も罪を犯した人を許してくださいます。ですが聖霊を冒涜すると、許す方がいないのです。自分を許すその扉を聖霊が入ることも出ることも出来ないように、自分自身がふさいでしまうのです。ですから、聖霊を冒涜するものは許されないと言われるのです。

信仰の力、特にキリスト教の力は、私は語りかけてくださる聖霊にあると思います。もし私たちが、原始キリスト教の、その力に預かりたいと思うならば、もう一度、初代教会の人々が信じたように聖霊の力を信じ、その力に預かることが大切です。イエス様はその聖霊を私たちに与えるといったのです。私たちは、何も考えずに、その聖霊を感謝を持って受け取り、その聖霊に自由に働いていただくだけでいいのです。そうすれば聖霊は私たちを導いて、人間の不安に満ちた思いから導き出して、愛と力に満ちた、イエス様の世界へと連れて行ってくれるのです。私はこの約束された聖霊を信じます。そしてその聖霊と供に生きることを私の信仰としていきたいと考えています。

 

(祈り)

 

天にいます父なる神様。あなたの恵によって、今日も家庭集会を持つことが出来感謝いたします。あなたは私たちに、聖霊を与えるとの約束を与えてくださいました。そして、私たちは、いつの間にか、知らない内に、あなたの聖霊に導かれて、この信仰生活を歩んでまいりました。あなたの聖霊がなければ、私たちは信仰を持つことも出来ず、イエス様を主と告白することも出来ません。あなたの聖霊は、私たちの霊の眼と耳とを開かせ、今まで見えなかったものが見えるようになり、今まで聞こえなかったものが聞こえるようになり、御名を賛美して生きるものとさせてくださいます。主よ、どうか、私たちが聖霊を豊かに与えられて、あなたの力を受け、あなたの証人となっていくことが出来ますように。私たちは惨めなものであったけれども、主が私たちに現れてくださり、私たちを変えてくださり、私たちを救いへと導いてくださったと、大胆に伝えるものとさせてください。

 今日集いました人々の上に、あなたの祝福がありますように。救いを求める人々の上に、あなたの御業がありますように。

この祈りを、主イエスキリストの御名によってお祈りいたします。

 


◇使徒言行録

◆はしがき

使 1:1 テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。

◆約束の聖霊

使 1:3 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。

使 1:4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。

使 1:5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

◆イエス、天に上げられる

使 1:6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。

使 1:7 イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。

使 1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

使 1:9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。

使 1:10 イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、

使 1:11 言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

◆マティアの選出

使 1:12 使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。

使 1:13 彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。

使 1:14 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。

使 1:15 そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。

使 1:16 「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。

使 1:17 ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。

使 1:18 ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。

使 1:19 このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。

使 1:20 詩編にはこう書いてあります。『その住まいは荒れ果てよ、/そこに住む者はいなくなれ。』/また、/『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』

使 1:21 そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」

使 1:23 そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、

使 1:24 次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。

使 1:25 ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」

使 1:26 二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。